Oasis(オアシス)

イギリスを代表するバンドオアシス!

リアム・ギャラガー(ボーカル)


■リアム・ギャラガー (Liam Gallagher,1972年9月21日 - )

<概要>
90年代のブリットポップ・ムーブメントにおいて中心的人物であり、音楽だけでなく、奔放な言動や不遜な態度などでもプレスを賑わせて来た。90年代以降のブリティッシュ・ミュージックシーンにおいて最も認知されているロックシンガーの一人。

ロックスターらしい破天荒でワイルドな立ち振る舞い、インタビューの際に気に入らない他のバンドを名指しで酷評するなどの過激ともとれる発言などで、ファンにとってはカリスマ的存在。数々の暴力事件やドラッグなどが原因で、これまでに幾度となく警察に逮捕されているが、最近は父親になったということもあり、以前ほどの破天荒さはなくなって来ている。

同バンドのリーダーで兄のノエル・ギャラガーとの兄弟喧嘩は有名で、兄弟喧嘩のエピソードは枚挙に暇がない。喧嘩が原因で、ノエルがバンドを一時離脱するなど、幾度となくバンドが解散の危機に晒された。また、2009年にOasisが実質的に解散したのも、兄弟喧嘩が主要な原因の一つである。

手を後ろで組み、右肩を下げ、上半身を仰け反らせながら仁王立ちで歌う独自のボーカルスタイルが特徴的である。顔を下に向けて歌うことはない。


<生い立ち>
1972年、マンチェスターのバーネイジで、アイルランド系の両親、母ペギーと父トミーの間に生まれる。

長男・ポールが1966年、次男・ノエルが1967年、末っ子のリアムは1972年生まれで、リアムとノエルは歳が5歳離れている。ポールには1人部屋が割り当てられたが、ノエルとリアムは同じ部屋を共有させられた。子供の時から現在に至るまで、常に母親を大切に思っている一方、アルコール中毒の傾向があり、家族に暴力的だった父のトミーに怯え、片親同然で育った幼少期を送った。トミーは、ポールとノエルに最も酷くあたり、リアムだけにはそれほど暴力は振るわなかったとされる。幼い頃は社交的だったノエルが、他人との精神的な繋がりを求めない性格になったのは、父からの暴力が原因である、と言われている[1]。リアムは子供の頃、兄2人が家を出ている間1人で留守番をしていることが多く、惨めったらしい思い出ばかりだった、と語っている[2]。また、自分の子供達には同じ思いを絶対させたくない、と発言している。

ギャラガー兄弟は、しばしば学校をずる休みする生徒であり、ティーンの頃からよく警察の世話になっていた。ノエルは13歳の頃、近所で万引きを働き、半年間の保護観察処分を受けている。リアムが6歳の頃に受けもった彼の担任の先生は、母ペギーに、リアムのおかげで毎晩精神安定剤のお世話になっている、と言うほどの悪童であった。リアムは15歳の時、ケンカなどの行いが原因で、義務教育も残り数ヶ月というところで中学校の退学処分を受けたが、その後母の懇願もあって復学、何とか卒業までこぎつけたようだ。リアムは他人の家の庭に忍び込んで、気に入った服を盗んだり、ドラッグを買うために自転車や芝刈り機などを盗んで売りさばいていたという[3]。

ローティーンの頃からすでにギターを始め、作曲するなど、音楽に入り浸っていたノエルとは違い、リアムは、18歳頃になるまではほとんど音楽に関心がなかったことを認めている。しかし、ストーン・ローゼズのライブを見たことで、音楽に目覚める。初期のオアシスには、ストーン・ローゼズからの影響が色濃い楽曲が存在し、彼の大口を叩くところや、悠々と闊歩するステージでの歩き方(『The Masterplan』のPVは、オアシスのメンバーが登場するアニメとなっているが、リアムの歩き方がそっくりに再現されている。)などは、イアン・ブラウンのそれと似ており、よく比較される。音楽に開眼した後、ザ・キンクスやザ・ジャム、T・レックス、そしてビートルズなどを熱心に聴くようになる。ここで、リアムに最も影響を与えているであろうジョン・レノンを知る。学校の友人であった、ギグジーことポール・マッギーガンからの誘いを受けて、ボーカリストとして、バンド"ザ・レイン"に加入する。このザ・レインが、後にオアシスに改名する。


<ソングライティング>
かつては、ノエルが書く曲を歌うだけであったが、4thアルバムに、リアムが初めて作詞作曲をした『Little James』が収録されて以降、現在の最新アルバムまでリアム作曲の楽曲がコンスタントに収録されるようになった。なお、リアムが作曲した曲は極めて基本的なコードしか使われておらず、非常にシンプルな構成であることが多い。例えば、『Songbird』では2つのコードしか使われていない。しかし、ノエル曰く「書いた奴に関係なく名曲だ」との事。ベスト・アルバムの曲解説で、ノエルが上記の発言をして『Songbird』について語ろうとすると「そんな話はよせ」と、照れていた。


1994年 オアシス(Definitely Maybe)


■オアシス(Definitely Maybe)

<解説>
アシス(Definitely Maybe)は、1994年に発売されたオアシスのデビューアルバム、また同名のビデオ作品。全英1位。

メンバーの自己評価、メディアの評価共に、オアシスのディスコグラフィーで1,2を争う作品。ノエルは1994年当時から現在まで、このアルバムを自己最高傑作と言ってはばからない。

<収録曲>
1. ロックンロール・スター - Rock 'N' Roll Star

タイトル通り、「今夜、俺はロックンロールスター」とロックスターへの成り上がり精神を高らかに宣言するナンバー。デビュー前、たった2人だけの観客の前で歌った事がある。その時の客の反応は芳しくなく、翌日のライブでも観客数人の前で歌ってみたところ「お前ら救いのねえ野郎だな」などと野次られたため、そいつらをメンバー全員でボコボコにリンチしたというエピソードがある。現在に至るまでライブでよく演奏される。

2. シェイカーメイカー - Shakermaker

2ndシングル。1970年代にコカ・コーラのCMソングとして起用されていた、ニュー・シーカーズの「I’d Like To Teach The World To Sing」と歌い出しが似ていると訴訟問題に発展した。これについてノエルは「オレ達が飲むのはペプシさ」とコメントし、ビートルズの「フライング」からも影響を受けているともコメントしている。また歌詞はナンセンスなもので、おもちゃ、お菓子、子供向けアニメ、ザ・ジャムの「Mr.Clean」、地元マンチェスターのレコード店が登場する。

3. リヴ・フォーエヴァー - Live Forever

3rdシングル。初のTOP10入りを果たした代表曲。ノエルが建設会社に勤務中に足を骨折し、負担の少ない倉庫番の仕事をしている時に作られた。歌詞ではギャラガー兄弟の母親について歌われ、「生きること」を肯定的にとらえた曲である。また、当時驚異的な人気を誇っていたしていたグランジブームの筆頭格であるニルヴァーナのカート・コバーンがアルバム「イン・ユーテロ」のタイトルにしようと考えていた、"I Hate Myself and I Want To Die"(自分が嫌いだし死にたい)への反発の意味も込められている。

4. アップ・イン・ザ・スカイ - Up in the Sky
5. コロンビア - Columbia
6. スーパーソニック - Supersonic

1stシングル。間奏とアウトロで聴けるギターフレーズはジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」から、また歌詞にはビートルズの「イエロー・サブマリン」が登場する。

7. ブリング・イット・オン・ダウン - Bring It on Down

スーパーソニックが作られるまでは1stシングル候補だった曲。

8. シガレッツ&アルコール - Cigarettes & Alcohol

4thシングル。T・レックスの「Get It On」からギターリフを引用している。ノエルは自身が影響を受けた様々なアーティストの曲から、歌詞やタイトル、メロディや楽器フレーズを自分の楽曲に取り込むことで有名だが、その中でもシガレッツ&アルコールは引用されていることが有名な曲である。ノエル自身も公言している。歌詞の内容は、イギリスの労働者階級出身者として働き生きていく中で、仕事や生きる価値、自身の力で這い上がる必要性などについて歌っているもので、決してドラッグソングやタバコと酒を賞賛している内容ではない。

9. ディグジーズ・ディナー - Digsy's Dinner
10. スライド・アウェイ - Slide Away

ポール・マッカートニーのお気に入りの曲でもある。

11. マリード・ウィズ・チルドレン - Married with Children

ノエルがこの曲を作った時のガールフレンドに言われたことを歌詞にした曲。アルバム唯一のアコースティックナンバー。
全曲、ノエル・ギャラガーによる作詞・作曲


来歴



* ポール・ "ボーンヘッド" ・アーサーズ、ポール・ "ギグジー" ・マッギーガン、クリス・ハットン(ヴォーカル)が前身バンド「ザ・レイン」を結成。ザ・レインの初演は、地元マンチェスターのバーネイジにあるカードゲームクラブで、ドラムマシンを使って行われた。後に、ドラマーとしてトニー・マッキャロルが加わる。

1991年

* 音楽関係の仕事をしていたノエル・ギャラガーのコネを狙って、ボーンヘッドがクリスをクビにし代わりにリアム・ギャラガーを加入させ、リアムはバンド名をオアシスと改名(ギャラガー兄弟の寝室に貼ってあったオールダムのインディー・ロックバンド、インスパイラル・カーペッツのツアーポスターに由来している。ポスターには開催地の1つとしてスウィンドンのオアシス・レジャー・センターが記載されていた)。
* 8月、オアシスはマンチェスターのボードウォーククラブで初めてのギグを行う。リアムの実兄であり、インスパイラル・カーペッツのローディーであったノエルがライヴを観に来る。ノエルはオアシスのサウンドを特にいいものだとは思わなかったが、書き溜めていた曲を活用するいい機会かもしれないと考えた。ノエルはメンバー一同に対して「お前たちはどうしようもないクズバンドだ。だがリアムのパフォーマンスには少しだけ光るものがある。俺の曲を演じてビッグになるか、このままマンチェのクズバンドで終わるか、どっちだ?」と言い放ち、すべてのリーダーシップを自分に委ねることを条件にバンドに加入。

1993年

* 10月、クリエイション・レコーズと契約する。

1994年

* 2月、ザ・ヴァーヴのギグに参加するためのアムステルダムへの移動中、船の中でノエル以外のメンバーが乱闘を起こし強制送還される。結局ギグではノエルがひとり弾き語りを行う[5]。
* 4月、シングル「スーパーソニック」でデビュー。31位を記録する。
* 8月、3rdシングル「リヴ・フォーエヴァー」をリリース。10位を記録。
* 9月、アルバム『オアシス』発売。デビューまでの騒動がマスコミで取り上げられていたこともあり、英国で初登場1位のヒットとなり、デビューアルバム最速売り上げ記録を更新(この記録は2006年にアークティック・モンキーズのデビューアルバムによって破られている)。初来日公演も実現し、東名阪の3都市全てで会場はクアトロだった。ロサンゼルスではリアムがドラッグを使用しながらライヴを決行。その結果、リアムのパフォーマンスはいい加減なものになり、観客に対して侮辱するような発言を繰り返し、ノエルをタンバリンで殴り付けた。ノエルはバンドを一時脱退、飛行機でサンフランシスコに向かう(この出来事をきっかけに「トーク・トゥナイト」が書かれた)。ノエルはレーベル関係者に捜し出され説得を受け、ミネアポリスの公演からツアーを再開した。
* 12月、クリスマスシングル「ホワットエヴァー」を発売。UKチャート最高3位。現在までアルバム未収録。

1995年

* 4月、メンバーとの関係が希薄で、技術的に問題のあったドラマーのトニー・マッキャロルが解雇され、代わりにポール・ウェラーの勧めで元スタークラブのアラン・ホワイトが加入する(アラン・ホワイトは、スタイル・カウンシルのスティーヴ・ホワイトの実弟)。同月、シングル「サム・マイト・セイ」が発表され、シングルで初めてUKチャート1位を獲得。
* 6月、加入したばかりのアランとともにグラストンベリー・フェスティバルにヘッドライナーで出演。当時としては新記録となる10万人以上の観客を動員するが、ステージで未発表の新曲を多数演奏したために暴動騒ぎが起こった。
* 8月、メディアに煽られる形で始まった「オアシスvsブラー」の争いは、オアシスのシングル「ロール・ウィズ・イット」とブラーのシングル「カントリー・ハウス」の同日発売で頂点を迎える。この対決のことで国内のニュースは持ち切りとなる。結局ブラーが1位(27万4000枚)、オアシスは2位(21万6000枚)に終わるが、ブラーは通常盤とライブ盤の「カントリー・ハウス」(B面も違う)を用意しファンが2枚買うようにしたこと、「カントリー・ハウス」の方が値段が安かったこと、オアシス側に集計ミスが多数あったことで本当の意味でのブラーの勝利かどうかは不明である。
* 9月、ギグジーが精神疲労で一時脱退、代役にThe Ya-YasのScott McLeodを迎えツアーを行う。
* 10月、2ndアルバム『モーニング・グローリー』発売。UKチャート1位。アルバム売上枚数は全世界で約2200万枚を記録し(2008年時点)、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が持っていた英国アルバム売り上げ記録を約30年ぶりに更新(現在はクイーンとビートルズに抜き返されている)。その完成度の高さから、当初全曲シングルカットの企画もあったが断念された。
* 11月、ロンドンのアールズ・コートで2日間4万人を動員するライヴを開催。ヨーロッパの屋内ライヴとしてはこれがギネス記録。また、このときオーディエンスの鳴らす振動が地震として計測されるほどの盛り上がりだった。

1996年

* この年は95年に発売された『モーニング・グローリー』からの3枚目のシングル「ワンダーウォール」がアメリカでもじわじわとチャートを上昇。オアシスはMTVアウォード(EURO)でベストグループを受賞するが、酔ったリアムがステージで嘔吐する。
* 4月、「マンチェスターメイン・ロード 2days」を行い、8万人を動員した。
* 5月、海外向けにシングル「シャンペン・スーパーノヴァ」をリリース。USチャート1位を記録する。この曲はポール・ウェラーがギター、バックヴォーカルで参加している。
* 8月、ロンドン郊外のネブワースにて2日間で25万人を集める(250万件の予約が殺到した)。名実ともにオアシスがスタジアムバンドにまで登り詰めた。『MTVアンプラグド』に出演した際、収録直前にリアムが喉の不調を訴えキャンセル。代わりにノエルが全曲で歌を披露した。リアムはバルコニー席でビールとタバコを嗜みながらライヴを鑑賞、曲の間にノエルを野次っていた。4日後、リアムがアメリカツアーに行くことを拒否したため、ノエルをボーカルに据えてツアーに出発する。その後リアムがバンドに合流するが、数週間後に今度はノエルがバンドを残して飛行機で家に帰ってしまう。メディアにはバンド解散かと騒がれたが、兄弟はすぐに和解し残りのツアーを終えた。

1997年

* 8月、3rdアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』発売。UKチャート1位、USチャート2位を獲得。UK最速セールス記録を更新し、現在までに全世界で約950万枚を売り上げている。しかしその内容には賛否が分かれ、評論家たちからの容赦のない批評に晒された。

1998年

* 2月に日本武道館で3日連続公演を行う。滞在したホテルはビートルズと同じキャピトル東急ホテル。
* 11月、クリスマス商戦に向けBサイドアルバム『ザ・マスタープラン』を発売。UKチャートで最高2位。ファン投票で選ばれた曲が収録されている。当初は「ホワットエヴァー」の収録も噂されたが結局なかったことに。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」と「リッスン・アップ」が一部編集されている。

1999年

* 8月、ボーンヘッドが脱退[6]。2週間後、後を追うようにギグジーが脱退。ノエルはボーンヘッドのギターとギグジーベースのパートを録り直す。
* 12月、元ヘヴィ・ステレオのゲム・アーチャーが加入。モナコのデイヴィッド・ポッツとリハーサルを行うがすぐに離脱、元ライド、ハリケーン#1のギタリスト、アンディ・ベルがギグジーの後任として加入する。デビュー以来所属していたクリエイション・レコーズが倒産。

2000年

* 2月、4thアルバム『スタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツ』を発売。UKチャート1位。前年のクリエイション・レコーズ倒産に伴い、この年から自ら立ち上げたレーベル・ビッグ・ブラザーからのリリースとなる。プロデューサーには過去3作を担当したオーウェン・モリスの手を離れ、ポール・スパイク・ステイシーを起用。リアムが書いた曲「リトル・ジェームス」が初めて収録される。オアシスのロゴがゲムがデザインしたものに新しく変更される。先行シングル「ゴー・レット・イット・アウト!」のPVではアンディの加入が間に合わなかったため、リアム(形式的だがギターをプレイ)、ノエル、ゲム、アランの4人で演奏を行っている。また「ホエア・ディド・イット・オール・ゴー・ロング?」のPVではアンディも揃ったメンバーで演奏、リアムが形式的だがキーボードをプレイしている。CDリリースと同時にワールドツアーを横浜アリーナよりスタートさせる。マリンメッセ福岡公演ではリアムが、体調不良を訴えて途中で退場している。
* 4月、カート・コバーンの命日から6年にあたるシアトル公演でニール・ヤングの「ヘイヘイ・マイマイ」を演奏した[7]。カートの遺書にはニール・ヤングの『ヘイヘイ・マイマイ』の歌詞の一部が引用されている。
* 5月、ワールドツアー中、アランが腕を痛めバルセロナでの公演をキャンセルする。バンドメンバーは代わりに飲み明かすが、リアムが当時のノエルの妻メグ・マシューズを侮辱し始め、「アナイスの父親は本当にノエルなのか」とノエルに疑問を投げかけ、殴り合いに発展する。ノエルはバンドを一時離脱、過去最大の解散危機を迎える[8]。急遽、代役のギタリストとしてマット・デイトンを起用。バンド史上初めてノエル抜きでライヴが行われる。このときの「アクイース」はノエルパートを丸々観客に歌わせていた。
* 11月、ノエル復帰後、ロンドンウェンブリー・スタジアムでの公演を収録したライヴアルバムとライヴDVD『ファミリアー・トゥ・ミリオンズ』を発売。CD2枚組と1枚組が存在する。ウェンブリー・スタジアムでは7月に2日間コンサートが行われ、リアムの調子が良かった1日目がライヴアルバム、 DVDとしてリリースされた。2日目は二日酔いのリアムがフラフラでステージに立つシーンが見られる。このときの模様は有料放送でヨーロッパ中に放映され、日本でもWOWOWが放映した。リアムは「2日公演なのを知らなかった」と弁明。

2001年

* 初頭、南米ツアーをスタート。
* 5月、ブラック・クロウズ、スペイスホッグと北米ジョイントツアー「Brotherly Love ツアー」を敢行[9]。
* 7月、フジ・ロック・フェスティバル'01で初日のトリを務める。また秋から冬にかけてバンド結成10周年小規模クラスのツアー「10 Years of Noise and Confusion Tour」が行われた。

2002年

* 5月、『MTV The Super Dry Live』、『MTV Video Music Awards Japan 2002』出演を含めた来日プロモーションを果たし、数々のメディアへ出演を果たす。
* 7月、5thアルバム『ヒーザン・ケミストリー』発売。UKチャートで1位を獲得。また、このアルバムではリアムがソングライターとしての腕を上げ、3曲を提供。ゲムとアンディもそれぞれ一曲ずつ手がけた。このツアーよりライヴの最後の曲がザ・フーのカヴァー「マイ・ジェネレイション」になる。
* 8月、ノエルとアンディ、ジェイ・ダーリントンを乗せたタクシーが衝突事故を起こす[10]。
* 9月 - 10月、東京(代々木第一体育館)、福岡、大阪、仙台、広島で来日ツアーを敢行。福岡公演(福岡国際センター)では前回のライヴに続いて(そのときとは事情が違うものの)、リアムが途中退場するハプニングもあった[11]。
* 12月、ミュンヘンのナイトクラブでリアムとアラン、バンド関係者3人が乱闘を起こし逮捕される[12][13]。リアムは前歯を2本失い、警察官の胸部を蹴りつけた。アランは灰皿で頭を殴られ軽症を負った。バンドメンバーは大量にアルコールを摂取しており、リアムはコカインを使用していた[14]。2年後、リアムは3万5000ポンド(約700万円)の罰金を支払った[15]。

2004年

* 1月、アラン・ホワイトが脱退。元ビートルズのリンゴ・スターの息子ザック・スターキーがサポートドラマーとして参加する。
* 6月、9年ぶりにグラストンベリー・フェスティバルに出演するが、評判はあまり良くなかった[16]。
* 10月 - 12月、デイヴ・サーディとスタジオ入りする。

2005年

* 5月、6thアルバム『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』発売[17]。UKチャート1位を獲得。『モーニング・グローリー』以来の傑作として称賛を浴びる。イギリスでシングル「ライラ」も初登場1位を獲得。これでオアシスのNo.1シングルは7枚目、またシングル・アルバム総チャートイン週は766週に。日本ではアルバムがオリコン初登場1位を記録。これは英国のバンドのオリジナル・アルバムとしてはベイ・シティ・ローラーズ以来、30年ぶりである。
* 5月、過去10年間においてUKで最も成功したバンドとしてギネスに認定される[18]。
* 6月30日 - 7月3日、9年ぶりに地元チームマンチェスター・シティのホームグラウンド(シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム)で3日間のライヴを開催。
* 8月、サマーソニック'05のヘッドライナーを務める。
* 11月、来日し大阪城ホール、東京の代々木第一体育館でライヴを行なった。

2006年

* 3月、映画『GOAL!』のサントラに3曲を提供。そのうち1曲はノエルがヴォーカルを取る新曲。
* 11月、ノエルの選曲による初のベストアルバム『ストップ・ザ・クロックス』を発売。6thアルバム『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』に続いてオリコン初登場1位を獲得。ほぼ同時に、ツアーの模様を収めたロードムービー『ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン』が公開される(ただし試写会のみ。2007年10月のDVD化)。また、世界各地でノエルがゲム、サポートドラマーのテリーとともにアクースティック・ライヴを披露する。日本でも11月15日に『笑っていいとも』へ生出演し、MySpace主催によるシークレットライヴが恵比寿LIQUIDROOMにて行われた[19][20]。翌16日には『ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン』の特別試写会後にノエルが登場し、ノエルへのインタヴューやQ&A、ノエル単独でのアコースティック演奏がSHIBUYA-AXにて行われた[21][22]。
* 10月、ソニーウォークマンのイメージキャラクターを務め、テレビCMやカタログに登場する。Sシリーズ(NW-S700F)のCMには「ライラ」が、Aシリーズ(NW-A800)のCMには「モーニング・グローリー」が使用されている。日本映画『シュガー&スパイス 風味絶佳』にも、主題歌の「ライラ」を筆頭に、多くの既発曲を提供。

2007年

* 2月、ブリット・アワード生涯功労賞を受賞。
* 6月、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』40周年記念スペシャル番組へ「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」のカヴァー曲を提供。
* 10月21日、バンド初のダウンロード限定販売シングル「ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン」をリリース。本国イギリスでは10月29日にロードムービー『ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン』がDVDでリリース(日本盤は12月5日発売)。

2008年

* 5月、ザック・スターキーがザ・フー専念の為離脱。
* 6月、オフィシャルサイトより9月29日にシングル「ザ・ショック・オブ・ザ・ ライトニング」、10月6日にアルバム『ディグ・アウト・ユア・ソウル』をリリースすることが発表される。録音はアビー・ロード・スタジオで行われ、プロデューサーは前作同様デイヴ・サーディ。イギリスではスタジオアルバムがデビュー作から7作連続で1位、アメリカでは『ビィ・ヒア・ナウ』がUSチャート2位を獲得して以来11年ぶりにトップ10入りして5位を獲得した。

2009年

* 3月、3年半ぶりとなる来日公演を敢行。初の札幌公演から「ホワットエヴァー」が演奏されるようになる。27日には『ミュージックステーション』の3時間スペシャルに生出演し、特設ステージにて3曲(「フォーリング・ダウン」、「ザ・ショック・オブ・ザ・ライトニング」、「ホワットエヴァー」(アンコール))を生演奏した。
* 6月、リアムがファッション・ブランド「プリティーグリーン」を設立。
* 7月、フジロック・フェスティバル'09のヘッドライナーを務める。
* 8月、ノエルが正式脱退[23]。
* 10月、リアムが英国タイムズのインタビューにてオアシスの終了を宣言する(公式な解散発表ではない)。